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【炎上】河瀬直美の東大入学式祝辞スピーチ全文まとめ!なぜ起用されたと批判殺到!

河瀬直美の東大祝辞スピーチ画像

2022年4月12日に開かれた東京大学入学式にて、来賓として参加した映画監督の河瀬直美さんの祝辞スピーチが炎上しています。

ネットだけでなく国際政治学者などからも批判が殺到しているというスピーチ内容とはいったいどんなものだったのでしょうか?

今回は、河瀬直美さんの東大入学式祝辞スピーチ全文やネットの反応、炎上理由などをまとめてお届けしていきます。

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河瀬直美の東大入学式祝辞スピーチが炎上!「なぜ起用された」の声も

まずは、河瀬直美さんの東大入学式祝辞スピーチへのネットの反応を見てみましょう。

祝辞スピーチの炎上直後にはスタッフへの暴行疑惑が報じられ、ネット上では「なぜこんな人が起用されたのか?」という疑問の声が相次いでいます。

河瀬直美の東大入学式祝辞スピーチ全文

河瀬直美の東大祝辞スピーチ画像引用:東京大学

問題となっている、河瀬直美さんの東大入学式の祝辞スピーチ全文がこちらです。

多くの困難を乗り越えて、この度の東京大学へのご入学、誠におめでとうございます。

この約2年の間、コロナという未知のウイルスによって皆さんの日常が昨日までとは全く違う現実を余儀なくされることになりました。そんな中で今日という日を迎えられましたこと、大変悦ばしい時間を今、この瞬間、噛み締めておられるのではないでしょうか?

 今日は、手放しでその喜びを全身に受けて、お過ごしください。

 さて、そうはいっても、明日からの日々は、その喜ばしさに胡座(あぐら)をかいているわけにはいきません。かつてカンヌで、その年世界で一番これからを期待される新人に贈られる賞を受賞した時、フランス人の担当者が私に同じようなことを言ってくれました。今日はこのトロフィーを掲げて、大いに喜んでいればいい。けれども明日からはまた0から出発する。賞の上に胡座をかいていては、それ以上の成長はないのだと理解しました。

私は今年53歳になります。30年ほど先に生まれて、昭和、平成、令和の時代を生きてきました。この30年の人間社会の変化は凄まじいものでした。その関係の結ばれ方…とでもいいましょうか。ここで多くを語ることはしませんが、常識が覆されることの連続。かつてあった常識のどこを守り、どこを変えて生きてゆくのが最善であるのか、常に葛藤の中にありました。

しかし、振り返ってみれば、守るべきものの継承は自身のルーツに大きく指針を得ていたことに気づきます。私の場合、生まれる前に両親が別居状態に入ったことにより、生まれてすぐに子供のいない初老の夫婦のもとに養女にもらわれ、育ちました。戦争を知っている彼らの生活は質素でしたが、謙虚であり、昇りくる太陽に感謝し、街角の石仏に手を合わせて祈りを捧げる。

つまり「目に見えないもの」への感謝を欠かせない時代の人たちの暮らし。それを体現して育ちました。

あなた方と同じ年代の頃、私は「映像」に出逢います。そこで、8ミリフィルムカメラを手にし、街に自らを放り出すのです。初めてそれを手にした日のことは今でも鮮明に覚えています。

この手の中でカタカタと音を立てて掻き落とされてゆくフィルムに、ファインダーから覗いた現実世界が焼き付いていくのを感じていました。昭和の終わり頃の光景。この角を曲がれば何が私を待っているのだろう。それは、まるで玩具箱をひっくり返したようにワクワクが止まらない。見るもののすべてを意識し、記憶に残したいと思った出来事でした。

きっと私はあの時、なぜ自分がこの世界に誕生したのかを、悟ったのだと想います。それは、精神の誕生日ともいうべき、肉体の誕生から18年経ってようやく辿り着いた「実感」だったのです。皆さんにその「実感」は宿っているでしょうか?

当たり前に思っていることの奥に「ものの真理」が隠されていることを信じて、突き進んでください。きっとこの先その真理に出会った時、世界に「名前」があることに感動を覚えるはずです。嘆くことなかれ。

まだ見えていない世界との出会いは始まったばかり。この雲は次の瞬間どのように形を変えていくのだろう…と思うなら、その探究心こそがあなたの力です。

ああ、なんて世界はすばらしいんだろう、この一瞬一瞬を永遠に刻みたい。と、私は、あの時、想いました。こぼれおちた過去に再び光を当てる魔法、映画の神様が私に舞い降りた瞬間の出来事です。

さて、私が皆さんと同じ歳だった頃、世界への扉はまだ少なく、開くことのできる窓も今よりは限られていました。ですから私が映像に出会った時、まるで乾いたスポンジが水を吸収するかのように、それに夢中になり、他のことには殆ど見向きもしない時間を過ごすことができました。

しかし私も含め、平成、令和の時代の今、一つのことに集中して取り組むことがいかに困難か。私たちの周りにはとてもたくさんの「情報」が手に入り出しました。

そしてその「情報」は瞬時に目の前にやってきて、そして次の瞬間には過去になっている。つまり扉は無限に私たちの目の前に広がりました。そのどれをとっても魅力的であり、どの道に進んでもまた別の道がある。というように、あなたの未来にいくつもの可能性を示唆してくれるようになりました。

けれど、それは大きな罠でもあったようです。ある映画人が私にこんなことを教えてくれました。たった一つの窓をずっと見つめ続けてください。若い世代には特にそのことがとても大切であることを忘れないでください。

そのたった一つの窓から見える光景を深く考察してみてください。そうすればその窓の向こうにある「世界」とつながることができる。私はその言葉を頂いたときにとてもハッとしたことをよく覚えています。

なぜなら、自分の部屋から見える窓の向こうの景色には「真理」が隠されているのです。そしてその「真理」を知ることで、結果的に世界中の人との出会いを豊かにします。それは他でもない自らの言葉でその真理を伝えることのできる自分でいられるからです。これこそがオリジナリティであり、他の人には真似のできない唯一無二のものとなります。

私の地元奈良の東大寺は華厳宗のお寺ですが、華厳の思想はこうした小さいものの中に無限の宇宙を見ることを説いています。一つの窓を見つめ続け生み出された一滴が、私の「世界の切り撮り方」として他の人たちの目に触れます。逆にいうと、それ以外のことから誰も判断してはくれません。だからこそ、小さくても自らのまなざしを獲得することはとても大切なのです。

今、世界はあるひとつのバランスを失って、かけがえのない命が奪われる現実を見ることとなりました。「戦争」を世界から無くしたい。その想いは映画を撮り始め、世界で上映される機会が増えた頃に願った気持ちでした。

しかし、ひとつの映画で戦争は無くなりません。残念ながら、世界は小さな言葉を聞いてくれません。そう思わざるを得ない出来事が起こっています。

 先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。本堂蔵王堂には、山から伐ってきたままの大きな樹の柱が御堂を支えています。それらの樹は全て違う種類で、それはまるで森の中に自らが存在しているかのような心地になるとのことでした。

なるほどその存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているようです。この世界観、精神性が今の自分に大きな希望を与えました。

元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があり、それを次の世代の人たちに伝える大切な役割があるのでしょう。あなたが今日ここにあって、明日から、かの大木の柱のように、しっかりと何かを支え、しっかりと何かであり続ける人であってほしいと願います。また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。

「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」

金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。

 管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?

例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。

一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?

人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。

私があなたと同じ歳の頃、養母である「おばあちゃん」を撮っているとどうしようもなく彼女に触れてみたくなりました。8ミリをまわしながら私は彼女の頬に触れてみました。その時、私の中に2人の自分が存在していました。

冷静に世界を見つめる客観的な私と、おばあちゃんの肌触りを直接感じている主観的な私です。このふたつの存在、主観と客観を持つことこそが、表現者たる資質を獲得することに他ならないと感じていました。

その感覚を手に入れた私は、そのあとファインダーを覗いてフィルムカメラのシャッターを押しながら見えるものの固有名詞を叫び始めます。「空」「雲」「犬」「えんどう豆」「おばあちゃん!」こうして私は世界を存在させてゆきました。

名前をつけるということは、世界にそれらを存在させるということだったのです。あれから30年近くが過ぎ、今日、あなたとの時間を共有している自分がここにいます。そして「河瀨直美」という名前を持って、あなたに認識してもらっているなら幸いです。

さて、あなたが今いる場所にはどんな光景が見られますか?

 あなたのまなざしは、何を見て、何を描いてゆくのでしょう。
その未来は明るいですか?

 この自由な学びの場で存分に生きてください。これからたくさんの人に出会い、たくさんの本を読み、様々なことに挑戦していくのでしょう。

見た景色、聞こえた音、匂い、味、肌触り、そこから生まれた感情を大切に、どれだけ小さかろうとあなた自身の想像力をもって真理を見つけるたった一つの窓の存在を確かめてください。どこまでも美しいこの世界を自由に生きることの苦悩と魅力を存分に楽しんでください。

この度はご入学おめでとうございます。

引用:東京大学