歌手・アイドル

【追悼】八代亜紀の経歴や活躍を紹介

ハスキーな歌声で長年演歌歌手として活躍し、穏やかな笑顔からファンは勿論のこと、多くの有名人からも慕われてきた八代亜紀さん。

そんな八代亜紀さんが2023年12月30日に逝去されたという悲しいニュースが飛び込み、多くの人々に衝撃を与えています。

そこで今回は、追悼として八代亜紀さんの経歴やこれまでの活躍を振り返りたいと思います。

八代亜紀のプロフィール

引用:ORICON NEWS

八代亜紀は昭和を代表する演歌歌手

八代亜紀さんは1971年にデビュー以降、艶っぽくハスキーな歌声と女心を綴った歌で多くのヒット曲を世に送り出し、昭和を代表する演歌歌手として

演歌の女王

と呼ばれ、ファンを魅了してきたのです。

また八代亜紀さんは歌手活動だけに留まらず、画家としての才能も発揮し、さらに女優としても活躍するなどマルチな才能を発揮しています。

2023年12月、73歳で急逝

引用:Twitter

優しく、チャーミングでもある笑顔を絶やさず、生涯ヒットメーカーとして活躍した八代亜紀さんですが、2023年12月30日に73歳で急逝されています。

八代亜紀さんは2023年9月、指定難病で膠原病の一種である『抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎』と診断を受けたため、治療に専念するとして年内の活動休止を発表し、自身のホームページでは、‟必ず元気になって戻ってきますので待っててね”と力強いコメントをしていたのです。

そしてステージ復帰を目指して治療とリハビリに励んでいた八代亜紀さんですが、12月下旬に容体が急変し、そのまま帰らぬ人となったそうです。

そんな八代亜紀さんは療養期間中も、傍で支えるスタッフや医療従事者全員に‟ありがとう”と感謝を伝え、最後まで心優しい八代亜紀さんのままだったと言います。

こうして最後の最後まで、自身のスタンスを貫いた八代亜紀さんには、ファンを始め芸能界からも多くのお悔やみの声が上がっています。

八代亜紀の経歴①歌手や女優として活躍

優しい人柄から多くの人に親しまれ、50年以上に渡り歌手として活躍した八代亜紀さん。

ここでは、八代亜紀さんの生い立ちから歌手デビュー、そしてその後の素晴らしい活躍をご紹介します。

両親を助けたいという思いからクラブシンガーを目指す

引用:Twitter

父親がとても歌が上手で、その歌を幼少期から聞いていた八代亜紀さんは、自身も歌が大好きとなり、幼少期から地元の歌唱コンクールに出場しては優勝するなど、近所でも‟歌が上手い”と評判だったのです。

一方、小学生なのにあまりにハスキーボイスだった八代亜紀さんは、学校で‟そんな大人っぽい声を出してはいけない”と言われて、自身の声にコンプレックスを抱いていたのです。

しかし12歳の時に父親がジュリー・ロンドンのアルバムを買ってくると、自身と同じくハスキーな声を持つ歌声に魅了された八代亜紀さんは、この時にクラブシンガーになる決意をしたのです。

そんな八代亜紀さんは、歌手を志したのは‟ただ歌が好きだから”という理由だけではなく、実は運送会社を経営していた父親の経営状況が良くなかったため

八代亜紀
八代亜紀
早く働いて家計を助けたい!

という思いが強かったからだったのです。

そしてクラブ歌手になることを念頭に置きながら、その前段階として中学卒業後はバス会社に就職しバスガイドとして勤務した八代亜紀さんですが、当時は失敗だらけで自分に嫌気がさす日々を送っていたのです。

そんな中、友人から聞いたキャバレーのオーディションに18歳と偽って参加した八代亜紀さんは、見事に合格し地元・熊本県八代市にある『キャバレー ニュー白馬』で父親に内緒で働き始めたのです。

父親から勘当され、上京を決意

引用:Twitter

そしてキャバレーで歌い始めた八代亜紀さんでしたが、父親の友人が飲みに来たため3日でバレてしまい、不良になったと勘違いした父親から勘当されてしまったのです。

それでも‟歌手になって稼いで、お父さんを支えたい”という思いから上京し、親族の家に下宿しながら父親の誤解を解くためにも音楽学校へ通った八代亜紀さんは、音楽学校の学費を払うためや歌手になるために『美人喫茶』のオーディションを受けると、見事に合格し専属歌手として採用されたのです。

その後、16歳から銀座の高級クラブの専属歌手として歌うようになった八代亜紀さんは、評判を聞きつけたスカウトマンたちが

スカウトマン
スカウトマン
レコードを出しませんか?

と何人も来たそうですが、高級クラブの給料が良かったため断り続けたのです。

仲間の後押しによりデビューするも・・・

引用:Twitter

しかし一方で、高級クラブで働くお姉さんたちから、

アキちゃん、私達みたいな女性があちこちにいるの。だからさ、レコードを出して、そういう人たちにもあなたの歌を届けて

と言われた八代亜紀さんは、出勤前にレコード会社によって重役の面々の前で歌を披露したところ、専属契約してほしいと言われ、同じクラブで歌っていた五木ひろしさんの後押しもあり、レコードデビューすることになったのです。

そして1971年に『愛は死んでも』でついに歌手デビューを果たした八代亜紀さんは、あれだけ多くのスカウトマンからスカウトされたため、当然のように売れると思っていたのです。

しかし当初は全く売れなかった八代亜紀さんは、父親や応援してくれた人のためにも‟頑張らなくちゃ”という思いから、地方のキャバレー周りを毎日のように繰り返すという下積み時代を過ごしたのです。

『なみだ恋』が大ヒットし、ブレイク

そんな中、翌1972年に『全日本歌謡選手権』で10週勝ち抜き、見事グランプリを獲得した八代亜紀さんは、レコードも徐々に売れ始めると、翌1973年にリリースした『なみだ恋』が120万枚を売り上げる大ヒットを記録したのです。

そしてアイドル時代到来にも関わらず、1人だけドレスを着て淡々と歌い上げた八代亜紀さんは、

  • おんなの涙
  • 女ごころ
  • しのび恋
  • おんなの夢
  • ともしび
  • 花水仙
  • もう一度逢いたい
  • おんな港町
  • 愛の終着駅

と女心を歌った歌で次々とヒットを飛ばし、人気演歌歌手としての地位を確立したのです。

初の男歌『舟歌』で‟演歌の女王”の地位を確立

さらに1979年5月に初の男の心理を描いた『舟歌』をリリースした八代亜紀さんは、同曲で紅白歌合戦の大トリを務め人気を不動のものとすると、

さらに

  • 1980年:『雨の慕情』で日本レコード大賞を受賞
  • 紅白歌合戦で2年連続大トリを務め

演歌の女王と呼ばれるようになったのです。

演歌のみならず、ジャズやブルースにも挑戦

こうして演歌の女王と称された八代亜紀さんは、その後も新たなことに挑戦しながら順調にキャリアを重ねると、2012年にリリースした小西康陽さんプロデュースの初のジャズアルバム『夜のアルバム』が、世界75ヶ国で同時配信され、歌手活動42年目にして世界デビューを果たしたのです。

そして同作の大ヒットによりニューヨークのジャズクラブ『Birdland』でのライブも実現させた八代亜紀さんは、2015年には寺岡呼人さんプロデュースによる初のブルースアルバム『哀歌-aiuta-』をリリースし、世界中に‟日本のYASHIRO”を認知させたのです。

映画やテレビドラマに出演し、女優としても活躍

また歌手活動と並行して1972年にスクリーンデビューした八代亜紀さんは、以降多くの映画やテレビドラマに出演すると、ファンにトラック運転手が多かったことから1977年公開の映画『トラック野郎 度胸一番星』では女性トラッカー役で出演し、‟トラック野郎のマドンナ”とも呼ばれたのです。

八代亜紀の経歴②画家としての才能も発揮

父親が若い頃は画家志望で、休みの日は一緒に写生をしたりして過ごした八代亜紀さんは、小学生の頃は画家を志していたというだけあり絵の才能も抜群で、それまでは水彩画でしたが40歳頃に油絵に惚れ込み師事したのです。

すると、その繊細なタッチと感性豊かな表現力で画家としても高い評価を得た八代亜紀さんは、世界最古の美術展であるフランスの『ル・サロン展』で1998年から5年連続で入選・永久会員に認定され、2004年には日本の芸能人として初の‟正会員”になったのです。

八代亜紀の経歴③ボランティアにも尽力

歌だけではなく、演技や絵画の才能を発揮しマルチに活躍した八代亜紀さんは、ボランティアにも尽力していたことで知られ、少年院や刑務所への慰問を始め、被災地支援など多岐に渡り活動しています。

  • 少年院の慰問
  • 女子刑務所の慰問公演(2000年、日本全国すべてを訪問)
  • ペルーへの支援か活動(ペルー元大統領の両親が熊本という縁から)
  • ペルーにヤシロアキ工業技術学校を設立
  • 東日本大震災による被災地での支援活動

こうしてボランティアにも尽力し多くの人々の心に寄り添った八代亜紀さんは、他にも社会活動として『熊本市親善大使』に就任するほか、故郷である熊本県八代市に新設された『熊本県立八代清流高校』に自ら作詞・作曲した新校歌を贈呈しています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

この記事では、73歳で急逝された八代亜紀さんの経歴やこれまでの活躍をご紹介しました。

幼少期から歌や絵の才能に長けていた八代亜紀さんは、キャバレーや高級クラブ歌手を経て1971年に歌手デビューを果たすと、そのハスキーボイスから多くのヒット曲を連発し、演歌の女王と呼ばれたのです。

さらに歌手のみならず画家としての才能も発揮し、ボランティアや社会活動にも尽力した八代亜紀さんは、その誰にでも分け隔てない素敵な人柄で多くの人から愛されたのです。

そんな八代亜紀さんが残した素晴らしい作品や功績は、今後も輝き続けることでしょう。

八代亜紀さんのご冥福をお祈り申し上げます。